Osaak Craft Beer Stories

日常的に飲まれなければ成り立たない
クラフトビール経営をブリューパブで体系化

2023.12.25

ブリューパブスタンダード株式会社 代表取締役 松尾 弘寿 氏

「酒造りは儲からない」とブリューパブスタンダード株式会社代表の松尾氏はきっぱり言う。しかし販売を視野に据え、製造に伴う業務の効率化を徹底することで、商品の価格を下げずに経営を回すことができるという。自身のフランチャイズマネジメントの経験が生きるブリューパブのビジネスを聞いた。

自分なりの納得ができたら次のステージへ

「社会人経験はすべて飲食業界」という松尾氏は、調理師の専門学校を卒業後、19歳で上京して料理人として働き始めた。
「ケータリング専門の会社に入社しました。六本木ヒルズが開業した年でしたね。ITバブルと言われた時代で、出張パーティーの需要がものすごく多かったんです。他にレストランなどから内定はいくつか貰っていたのですが、特にこだわりはなかったので、景気の良さと給料の高さで決めました」
1年半ほど勤めたときに、職場の先輩が独立することになり、起業の勉強を兼ねて付いていくことにしたという。
「独立志向は強かったですね。大学に進学しなかったのもそのためというか…。見方を変えれば受験しなかったコンプレックス、大学に行かなかったコンプレックスもあったんですよね。それで余計に早く独立したいと思っていました」

自分なりの納得ができたら次のステージへ

立ち上げた先輩の会社は、松尾氏を入れて3人。松尾氏は料理を担当するだけでなく、営業、広報、経理などマルチに業務をこなした。環境や忙しさは以前のケータリング会社と変わらないが、経営を含めて会社を多面的に見られることがおもしろかった。
「会社の起業を一通り見て、自分なりに納得して次のステージに行きたいなと思ったんです。店舗運営のノウハウ、チェーンマネジメントを知りたいと思ったことと、比較的に規模の大きい企業で自分の実力も測りたかった。それで中途でも正社員採用の枠があったタリーズコーヒーに就職しました」
松尾氏が23歳のときだった。新卒とほぼ同じ年齢とはいえ、実務キャリアがある。それからはとんとん拍子に役職が上がり、入社から3年でエリアの統括マネージャーになった。管轄する店舗は10店舗に増えていた。
転機が訪れたのは、東日本大震災が起こった2011年、松尾氏が28歳のときのことだ。
「タリーズコーヒーに入社する前に結婚をして、震災前に一人目の子どもが生まれたばかりだったんです。小さな子どもがいることで妻も不安があって『それなら大阪に帰るか』と、彼女も大阪出身でしたから」
帰阪を機に会社を辞める予定でいたが、関西圏の展開を担う形で、オープニング専門の店長職を任されることになった。
「その仕事を2年間続けて、もう良いかなと思って独立を決めました」

ブリューパブを横展開するビジネスモデル

松尾氏は独立するならブリューパブをやりたいとずっと思っていたそうだ。どこでクラフトビールとの接点があったのだろう。
「先輩の会社で働いていた22歳の頃ですね。よなよなエールを初めて東京・恵比寿の『イニシュモア』という店で飲んで以来、クラフトビールが大好きになりました。特に東京ブラックが好きで、その頃は都内でもブリューパブは珍しく、リアルで飲める店を探しては足しげく通っていました。その中にブリューパブを多店舗展開する会社があって、いたく感銘したんですね。『このビジネスモデルはすげぇな』って」
大阪市内にブリューパブがまだなかった時代、松尾氏は未開拓の市場で早く名乗りを上げたいと、帰阪とタイミングで起業の準備を始める予定だった。
「会社から引き留められたこともあったのですが、母親が経営するステーキハウスの立て直しもしたかったので、また少し先延ばしにすることにしました」
松尾氏が大阪に帰ってからまず始めたのはクラフトビールをリアルで飲める店を探すことだ。大阪でよなよなのリアルエールが飲める店で検索し、ほどなく『エールハウス加美屋』がヒットした。通い続けて1年後のことだ。店のスタッフの一人が辞めることになったという。
「それなら僕が働きますって言ったら、その場で採用されました。その足でタリーズコーヒーに辞表を出しました」
余念のない決断力に驚かされるが、自身の家族には相談しなかったのだろうか。
「いつも事後報告ですね。妻は僕を止めても聞かないのを知っているからかな。いままで何か始めるときに止められたことは一度もないです。何より僕は生きる力が強いので、無職になっても稼いでくる自信もあるし、十数年かけて準備してきたという自信がありましたので、妻も『お金を家に入れてくれれば』というスタンスでした。本当のところ、内心はわかりませんが…」

ブリューパブを横展開するビジネスモデル

松尾氏の独立を理解してくれた加美屋のオーナーの厚意で、醸造の勉強の場所として、『國乃長』ブランドで知られる酒造の老舗、壽酒造につないでくれた。実は松尾氏と壽酒造との出会いはこれが初めてではなく、ビールイベントの手伝いをしたときに、すでに顔を合わせていたという。
「僕がイベントで仕事をしている姿は見ていたから、加美屋から紹介してもらったときも社長から『お前だったらいいよ』とすぐに採用してもらえました。実はイベントのとき、これは採用試験だと思って、顔を売らなあかんと頑張ったところもあります」
松尾氏は壽酒造で働くことが決まっても、加美屋を辞めることはしなかった。朝の8時から午後5時までは酒造り、午後6時からは店で働くダブルワークを3年間ほど続けた。
「冬場の11月から2月の約3か月間は、日本酒の仕込みで泊まり込みになります。それでも加美屋には週に1,2回は出勤していました。忙しかったけれど、楽しかったんですよ。」

人手不足が幸い?凝縮された酒造りの修行

壽酒造に入社したとき、製造スタッフは、師匠と呼んでいた杜氏の部長と先輩の同僚、松尾氏の3名だった。入社してすぐに、麹室の担当になり、実質的には杜氏のフォローをすべてこなすことになったという。
「一般的にはあり得ない配属なのかもしれませんが、酒蔵はどこも手が足りないのが通例で、若かった自分は販売もできるし、馬力もあるし、ちょうど良かったのかもしれません。僕は5年ほどで独立したいことを社長に伝えていましたので、先方からは『ビール造りも教えるから、その代わり日本酒造りも責任持ってやること』が条件でした。本来なら10年掛けて教わる全工程を、2年間でやれたことは本当にラッキーだったと思います」

人手不足が幸い?凝縮された酒造りの修行

繊細で複雑な日本酒造りの技術を得たことは、起業してからも松尾氏の大きな自信につながっている。ただ、製造に携わるようになって、改めて気付いたことがある。
「これは想像以上に儲からんなと思いました。日本酒もビールもそうですが、仕事は確かにしんどいし、ほんまに好きじゃないとようやらんやろうなと、そのときにビジネスとしてギャップを感じました」
酒の原価率、現場での労働量に酒の販売価格が明らかに合っていない。現場を目の当たりにした松尾氏は、改めてビジネスモデルを考える必要があると思った。
「入社から2年経って独立することを師匠の部長に言ったら、『もう1年おってくれたら、もうちょっと教えたる』と言われて、もう1年いることにしました。2015年にちょうど2人目の子どもが生まれたので、最後の1年は社員ではなくアルバイトの雇用で、育休にしてもらいながら独立の準備を始めました」

6割勝てると思うなら、自信を持って進め

ブリューパブ開業に向けて、酒造免許を取るために、まず設備を整えることから始めた。ちょどよく壽酒造の倉庫に、ビール製造の200リッターサイズのタンクと、ろ過に使うロイター板が余っていたという。まるで松尾氏の開業を待っていたかのようだ。
「タイミングが良すぎますよね。下にコロが付いているタンクが4本ほど転がっていたんですよ。社長には軌道に乗ったら買って返しますので、貸してくださいとお願いしました。おかげで設備投資の負担は減りましたが、造るものはその設備に合わせることが前提になりました」
松尾氏は、大阪創業館で行っている創業セミナーと金融セミナーを並行して受講し、開業資金の目途もついていた。
「その頃には『MARCA』や『BEER BERRY』がすでに開業していました。本当は一番に名乗りを上げたかったんですけれどね。それなら自分は飲食店を強調したスタイルで他店と差別化しようと思いました。そのときアドバイスをもらった先輩経営者に『6割勝てるならやるべきだ』と言われて、自分では勝率8割と思っていたので自信を持って始めました」 設備に合う工場の規模が決まったところで店舗となる物件を探したが、飲食店にふさわしい路面店、さらに工場が入る条件に見合うものは、大阪市内ではなかなか見つからなかった。目星を付けていた空き物件は、飲食業不可だったが、松尾氏は物件のオーナーに直談判して掛け合ったという。
「オーナーさんがお酒好きと聞いてそれならと、『ここでビールを造って売りたいんです!』と、直接プレゼンをしに行ったんです。熱意が伝わったんですかね、承諾してくれて、家賃も安くしてくれました。すごくラッキーでした」
2016年4月に1号店「ブリューパブ テタールヴァレ」を天満橋にオープンする。

6割勝てると思うなら、自信を持って進め

「僕たちのビジネスは、皆さん調べて訪れる目的来店なんですよね。集客力はあるので、一等地じゃなくても良いですし、それよりは安くて広い、知っていたら行きやすい場所がちょうど良いです」
ブリューパブスタンダードの中崎町の店舗は、もとが印刷工場だったテナント2軒を突き通している。オーナーが2階に住んでいて、2軒借りることで格安にしてくれたという。
実はこの店舗、「上方ビール」が開業した銭湯のオーナーが、「ビール造りって何をするんだ?」と思った際に足を運んで見学にきた店舗だ。それが“銭湯ビール”につながったと思うと、人の縁のおもしろさを感じる。これも横のつながりの一つかもしれない。

蛇口とカップを増やしてガブガブ飲ませる

松尾氏のブリューパブ事業の特徴は、ビール造りを追求することではなく、多店舗展開にある。それは創業を決意した当初から変わらない目標だ。
「チェーン店で働いていたこともあるのですが、好きなクラフトビールで多店舗化することの面白さというか、その業態ができたらすごいなと思いました。それならブリューパブの基準を作ろうと、ブリューパブスタンダードという社名にしたのはその所以です」
松尾氏が予想していた以上に「儲からない」酒造りの現状を見て、これからはブリューパブの事業を体系化することで経営は安定すると考えたという。
「いまクラフトビールのメーカーは、700社ぐらいまで増えています。僕はよく『蛇口が足りない、カップが足りない』という言い方をしていますが、生産量だけが上がっていって、飲み手の取り合いが始まっているんですね。メーカーがこれからも増えるなら、カップを増やさなければならない。それができるのがブリューパブで、アウトプットとインプットがセットになっていれば、マーケットが広がりやすいと思うんです」

蛇口とカップを増やしてガブガブ飲ませる

地域で消費される地ビールがブリューパブにとって一番の正解だと松尾氏は言う。そのため製品を流通に乗せるつもりはない。
「自分の根っこが飲食なんで、直接渡したいんですよね。造ったら直接飲んでもらいたい。ただ、僕はビール職人と経営者の目線から見て思うのは、クラフトビール製造って、ほんまに面倒くさい。それは酒造り全般に言えることですが、面倒くさいのに儲からないという大前提があります。少しでも儲かるようにするとなると、どうしても尖がったビールを造る傾向がある。クラフトビールの流れがそうしたエクストリームな方向にいくと、マニアックな商品開発に偏って、市場との乖離が出てしまうと思うんですよね」
アメリカでは1万社を超えるクラフトビール。そうした海外から入るクラフトビールが年々増えている市場でメーカーとして戦うとなると、業界そのものが先細りになってしまう懸念があるという。

蛇口とカップを増やしてガブガブ飲ませる

「エクストリームなビールを喜ぶニッチな人は確実にいます。それがクラフトビールの面白さでもあり、その方が売りやすいのはわかるのですが、販売数が限られてしまうことで経営としては成り立ちません。酒が利益を上げるには飲食店が不可欠です。そのために飲食店が扱いやすい、大手とは違う普通に美味しいクラフトビールを造ってたくさん売る、それをビジネスモデルとして形にしたのがブリューパブなんです」

点じゃなく面にしないと文化として育たない

ブリューパブスタンダードで造るビールは、開業翌年の2017年から毎年、世界的なビアコンテストで賞を受賞している。ポイントを押さえることで、きちんと美味しいビールはできると松尾氏。現在のもう一つの事業の柱は、新規に起業する人や、地ビールを企画する自治体に向けた開業コンサルティングだ。
「ビール造りは、プラスアルファの商売とセットにしないと成り立たないので、自分が培った飲食業や店舗立ち上げのノウハウとビール製造のノウハウを合わせて立ち上げをサポートしています。」
クラフトビール製造を目指して訪れる人に、松尾氏が必ず最初に言う言葉があるという。
「絶対に儲からないし、そもそもコンサルに金払ってまでやるものではないと、初めに断りを入れています。自分で調べるぐらいの熱意がなく、補助金を前提にしているのなら難しいと。それでもやろうとする人は限られますが、そのときには『それなりに僕も費用はもらうから、きちんと面倒を見さしてくれ』と腹を据える。本気の人と本気で向き合ってやるのが面白いんです」

点じゃなく面にしないと文化として育たない

醸造免許の取得回数は、サポートを含めて10件にのぼる。コンサルで得た経験も、松尾氏が望むブリューパブの横展開に大きな弾みをつけてくれるという。
「点や線じゃなく面にしないと文化にならないと思うんです。美味しいビールを造ったら、売値は落とす必要ないし、効率を軸に考えて生産コストを改善したらいいんです。単純なランニングコストではなく、イニシャルコストの比率を下げるためには、工場の規模を大きくする必要がありますが、現実的な投資額でいかに効率を最大化できるかがポイントなんですよね。クラフトビールの儲かる仕組みが、なんとなく最近見えてきているので、美味しいクラフトビールを造って、飲んで、儲かって、みんながめっちゃ楽しめる、そんな日常の風景が広がればいいなと思っています」

環状線の駅ごとにブリュワリーがある未来

松尾氏が請け負うコンサル業のなかで、最近は町おこしや街づくりの一環として地ビールをつくりたいという依頼が多いという。地方活性の一助となる一方で、クラフトビール造りはないがしろにされやすいと懸念する。
「設備が整えば始めやすいこともあって、地域と密着している地ビールはちょうどいいと思うんです。でも、町おこしありきで流行だからとクラフトビールを造ったら、以前の地ビールブームの失敗を繰り返すというか、それはしんどいだけでうまくいかないですよと伝えています。美味しいものをきちんと造って売ることの採算をセットで考えていかないと続きません」
1994年の酒税法改正とともに起こった第一次クラフトビールブームで、各地ではこぞって地ビールが造られたが、ビール醸造の知識や技術が伴わなかったこともあり、市場では「美味しくない」という認識が広まり、業界全体が下火になってしまった経緯がある。

環状線の駅ごとにブリュワリーがある未来

「街づくりにとってビールは必須ではありませんが、あればやっぱりコミュニケーションが活発になって、街づくりの熱量が加速しやすいと感じています。ちょうど触媒みたいなイメージですね。ビールがあるほうが活性化しやすい。最近は、街づくりがうまくいっているところには、やっぱりお酒があるなと感じています」
そんな松尾氏にとって理想とする“クラフトビールの街”があるという。
「大阪環状線の1駅ごとにブリュワリーがあることが理想です。僕は大阪市をアメリカのポートランドみたいにしたいと思っているんですよ。ポートランドはおそらく大阪市とおんなじぐらいの規模。そこに100社ぐらいのブルワリーがあるから、大阪もそんな感じの街にしたいなと思っています」

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