Osaak Craft Beer Stories

多様なものを受け入れて一緒に楽しむ
大阪の土壌が醸す銭湯ブルワリー

2023.12.25

株式会社上方ビール 志方 昂司 氏

「ゆ」の暖簾の向こうにビール工場があるなんて誰が想像できるだろう。株式会社上方ビールは、昭和のレトロ感が漂う銭湯の趣きを残したままリノベーションした醸造所。「面白いこと」こそが原動力だという代表の志方氏の自由な発想と、繊細な職人気質が融合するビールづくりとは。

食とのペアリングに、もっとビールを選べたら

代表の志方氏は現在36歳。上方ビールを立ち上げるまでは、神戸と大阪で4軒の飲食店を経営してきた。 「24歳の時に、神戸市灘区で小っちゃい立ち飲み屋を始めたのをきっかけに、バー、韓国料理、カフェとジャンルの違う店舗を展開して6年ぐらい続けました」
飲食を生業とするきっかけは、高校生のときのアルバイトにさかのぼる。
「高校生のときに、魚屋でアルバイトをしたんです。スーパーの鮮魚売り場ではなく、商店街とかにある街の魚屋さんで、そこで魚を捌く仕事を覚えて、それがとても楽しかったですね」 その後、飲食店のアルバイトは掛け持ちをするほどにのめり込み、さらに大学に進学してからは学業よりも夢中になった店に巡り合った。
「和歌山が本店なんですが、神戸の三ノ宮に『銀平』という鯛めしが有名な日本料理の店に入りまして3年ぐらい板前の修行をさせてもらったんです。とはいえ学生の身分だったのでがっつり板前の修業という感じで雇ってもらったわけではなく、給仕から何から全部やらせてもらっていました。魚屋のアルバイトもそうですが、もともと板場の仕事が好きなんでしょうね。」
銀平での和食の知識や技術を叩き込まれるうちに、和食ならではの素材の扱いや客のもてなし方のきめ細やかさを強く感じたという。
「和食って四季があるじゃないですか。旬の食材をあんなに熱心に使う料理ってなかなかないと思うんです。素材だけでなく『この食事にはこのお酒』といった食への心配りや接客は、和食ならではやな、と思います」

食とのペアリングに、もっとビールを選べたら

大学を卒業後は自身の店の立ち上げのため、ガソリンスタンドのアルバイトで60万円ほど資金を貯めた。約6年間で4軒の店を展開するまでになったが、店を続けているうちに、ずっと抱いていた“ビールと食事の相性”についての違和感がふつふつと湧き上がっていったという。
「ビールって選べないんですよね。例えば店に生ビールのサーバーを入れるにしても、一般的な飲食店であればメジャーな4社に絞られる。そのビール自体はもちろんとても美味しいんですが、ワインや日本酒ほどフードペアリングで遊べないなって感じていました。ビールってもっといろいろあるんじゃないかなと。その頃から海外のビールに興味を持ち始めました」
“とりあえずビール”という食事の習慣も同様で、コース料理で先付の次に御造りが出たら、もうビールは合わなくなると、日本料理の修行時代にも感じたという違和感。
「ビールにもう少し多様性があれば、コース料理も全部ビールで完結できるし、もっと面白いことができる」
と、その思いは次第に強くなっていった。
「当時は第二次クラフトビールブームの流れでヤッホーさんが先駆けとなって箕面ビールさんが大阪の市場をけん引していました。面白いな、日本で、自分でこんなことができんのや、と」
志方氏のスイッチが入った瞬間だ。

大相撲観戦がつないだ大切な人とのご縁

いざ自分でビールを造るとなると何から手を付けてよいかわからない。そこで市販の自家製ビールキットを購入して試してみた。
「原材料のエキスもすべて揃っていて、その種類がめちゃくちゃ豊富なんですよ。心が躍るっていうんですかね。『ああ、もうこれや』とビールの多様性を確信しました」
説明書通りの手順を踏んで仕込むこと約1カ月。果たしてそのビールは完成した。
「素人がやってもそこそこのものができました。心のどこかで笑い話にできるようなめっちゃマズいものができあがるとも思ったんですが、すんなり美味しいものができたんですよね。とても感動したのを覚えてます」
いよいよビール造りを事業として本格化しようとしたときに、技術習得よりも優先したのは、ビール会社のマネジメントのお手本となる会社を見つけることだった。いわゆる経営の修行の場だ。それには社員になるのが早いと、手あたり次第に大阪や神戸のビール会社の採用情報を検索してはエントリーをしたりメールを送ったりしたという。

大相撲観戦がつないだ大切な人とのご縁

「結果は全滅でした」
前途が行き詰まっていたときのこと、意図せず転機がやってくる。2017年の春のこと、自身の店の常連客に大相撲を升席で見ようと誘われた。
「相撲観戦の升席は4人で座りますが、その一人がブリューパブ『京都ビアラボ』の村岸社長でした。そのときは初対面だったので、まさか彼がビールを造る会社をやっているとは知りません。当時ちょうど京都ビアラボさんは酒造免許が交付される直前と聞いて、即座に『修行させてください!』と頭を下げました。村岸社長は『どうなるかわからないけど、全然いいよ』とその場で快諾してくれたんです」
渡りに船とはまさにこのことだ。ただ、京都ビアラボでの修行と並行して、自身のビール会社の設立を準備し、さらに4軒の店を経営し続けることはさすがに難しかった。しばらく経って各店の店長に店を譲渡する提案をした。自分の手で立ち上げた店を手放すことで、ビール事業に本腰を入れる覚悟が決まった。

オーストラリア人に学んだ大らかで自由な発想

2017年4月に京都ビアラボの免許が下りて間もなく、志方氏の現場修行が始まり、自宅の神戸から京都まで電車で毎日朝早くから通った。
ビール造りの師匠は、村岸社長のビジネスパートナーである「トム」という志方氏よりも一つ年下のオーストラリア人だ。トムは来日して長いが、もともとはオーストラリアの醸造所で働いていたという。

オーストラリア人に学んだ大らかで自由な発想

「京都ビアラボさんも立ち上げたばかりでしたので、村岸社長とトムとともに、試行錯誤を繰り返す毎日でした。2つの大きな寸胴でつくる小さなシステムなのですが、その試行錯誤がとても楽しいんです」
数十種類もある麦芽やホップ、酵母の組み合わせはもちろん、風味に加えるエキスもちょっとした匙加減一つで仕上がりがまったく違うものになるし、原料の割合を間違えばビールとは呼び難いものにもなってしまう。
原料の組み合わせの工程で、トムはオーストラリア時代の経験で得た技量をいかんなく発揮したが、志方氏が何よりも感銘を受けたのは、彼らの自由な発想力だという。
「京都ビアラボさんの看板商品の一つに京都産の茶葉を使うビールがありますが、それが絶妙な美味しさなんです。そうしたアイデアは村岸社長の得意とするところで、トムはすぐにお茶農家さんを訪ねて『この茶葉は何℃のお湯で淹れたら一番美味しいのか』と聞きに行っていました」
そんな彼らのクラフトビールへの探求心が志方氏にはとても刺激的だった。実際の商品化には、村岸社長が以前に町おこしで携わった高級茶で有名な京都・和束町から茶葉を仕入れることになったという。 「いまでこそSDGsという言葉がありますが、トムにはそうした考えがもともと身についているように思えました。みんなで世界をより良くして生きようとか、美味しいクラフトビールを作るなら地域の特産品を使おうとか、ビールの多様性をとても自然体な発想で広げてくれる。それがとても勉強になりました」
志方さんは当初、ビールの酵母の区別がつかず、エールとして仕込んだものに、ラガーの酵母を入れてしまったことがあるという。しかし意外にも美味しいものが出来上がった。
「そんなときでさえトムは『美味しいならいいんじゃない?』って笑ってました。失敗ではなく経験が増える。結果オーライの大らかなスタンスがとにかく面白くて、ここでの様々な試行錯誤がいまの自分の礎になっていると思います」

社名にも反映したレトロな銭湯との出会い

京都ビアラボでの修行を始めて1年が経とうという頃、並行して準備をしていた自身のビール工場の酒造免許がいよいよ下りる目途がついた。酒造免許は製造場所の届け出が必要なため、当初は神戸を拠点にする予定で社名も「神戸麦酒」で申請をしていたが、いざ工場の物件を探す段になってつまずいた。
「工場の跡地や酒蔵だった場所などがありましたが、どうしても近隣の方々の理解が得られませんでした。そこで再申請をする覚悟で、エリアを京阪神まで広げて、不動産屋に再度探してもらうことにしたんです」
10か所ほどピックアップしてもらった物件を一日で見て回ろうという日、1軒目にして運命との場所と巡り合った。

社名にも反映したレトロな銭湯との出会い

「そこは廃業した銭湯がそのまま残っていました。不動産屋としては本命を見せる前の“捨て案”として、1軒目に見せたのでしょうけれど、自分にはピンとくるものがありまして…。ここでビール工場になったら面白いぞと」
他の物件を見るのを断り、その場で即決した。銭湯を営んでいたご夫婦が大家として2階に住んでいて、ビール工場をここでやりたいと申し出たところ意外な反応があった。
「ビール工場ってどんなことをするんだと、大家さん自らが『俺、見に行ってくるわ!』って、大阪のいろいろなブルワリーに赴いて見学してきたんです。それで『こんな面白いことをウチの物件でやってくれるんだったら大歓迎や!』と、あとはとんとん拍子で契約に進みました」

社名にも反映したレトロな銭湯との出会い

当初の社名「神戸麦酒」は、スタートアップ企業を対象とした補助金や助成金の面談の際、面接官から「大阪なのになんで神戸麦酒なん?」と、何回も言われたこともあり、「上方ビール」に変更した。
「『大阪ビール』」も考えたのですが、この銭湯のレトロ感というか、古き良き時代を感じる名前にしたいなと、大阪の古い呼び名の『上方』を選びました」

「俺はやりたいこと、やりたいねん!」の熱量

酒造業を始める難関は、酒造免許の取得に寄るところが大きい。免許取得には工場設備を開業前に整えることが条件のため、設備資金に加え、免許申請から取得までの期間を要することから、当面の運転資金や生活費も念頭に置かなければならない。
志方氏も2017年に京都ビアラボで修行を始めた当時は、先方が立ち上げ前で売上がなく、またビール造りを学ぶために自ら志願したこともあり、修業期間の収入はない。
「貯金を切り崩しながらフルタイムで働いていた妻の給与で家計を賄いました。妻も『全然支えるで』と言ってくれて。近所に住む私の母親にも協力してもらって、保育園のお迎えをお願いすることもありました」

「俺はやりたいこと、やりたいねん!」の熱量

工場設立のための資金調達は、法人を立ち上げる2018年7月の段階で、設備費と人件費を合わせて3,000万円の融資を受けることができた。ただし、その道のりは決して平らではなかった。
「苦労しました。まず政策金融公庫(国金)の窓口に何度も足を運んで、自分の事業プランを書類にまとめてプレゼンテーションします。何度も掛け合って、さらに予測売上など数字の根拠の精度を上げるために、税理士の先生を雇ってバックアップをしてもらいました」
酒造業の経営の経験もなく、免許もない。いわば業界素人へ融資をさせた志方氏の交渉術がとても気になる。
「熱量、ですかね。もちろん数字をもとにした事業プランが前提になるのですが、その時の自分自身を因数分解していったら、『俺はやりたことをやりたいねん』って熱意が残った、というか。税理士の先生は『あの担当者はAIで動いてる(ようだ)』と言っていましたから、自分の熱意が本当に伝わったかどうかはわかりませんけどね。大変でしたが、あの審査がいまにつながっていると思うと楽しかったし、あの審査がなければいまがない」
志方の熱意の賜物か、国金から銀行を紹介されて無事に融資を受けることができた。

楽しく作ったビールじゃなきゃ楽しく飲まれへん

融資が無事に下りて、銭湯ブルワリーの設備を本格的に設置する間も、志方氏は京都ビアラボでの修行を続けていた。ビール造りの師匠であるトムから受けた工場設備の配置に関するアドバイスが印象的だ。
「トムは『プライベートも仕事も楽しそうなやつが作ったビールじゃなきゃ、楽しく飲まれへんやろ』というのが基本スタンス。だから楽しいことができるように設計していこうよ、と。壁をつくらず受け入れて楽しむ、そんな考え方にとても影響を受けました」
2018年7月の申請から約1年後、2019年6月29日に免許が交付され、仕込みの初日には、志方氏と同い年という京都ビアラボの同僚が手伝いにきてくれた。また会社に出資してくれた友人4人も仕事の合間を縫って手伝いに駆け付けたという。
「当初は自分一人でやってたんですが、見るに見かねたんでしょうね。めっちゃ手伝いに来てくれたメンバーが、いまも社員として働いてくれています」

楽しく作ったビールじゃなきゃ楽しく飲まれへん

初めて仕込んだビールはIPA 。果たしてその味は?
「思った通りの味ができました。何よりもうまかったです」
商品化と同時に「日本初の銭湯リノベーションしたビール会社」でプレスリリースをかけたところ、予想以上の反響があったという。
「最初の半年間で、3、40回ほどテレビ番組で紹介されたり新聞記事に掲載されたりしました。なかには新聞社の特集やテレビ局の密着番組もありました。プレスリリースの費用は10万円ほどでしたが、1,000万円か2,000万円の広告効果になったんちゃうか、と」
“面白い”と感じたまま意図せず張った伏線を回収した形だ。工場を開放していたこともあり、銭湯の中で写真が撮れるのが面白いと、外国人観光客がSNSを通じて訪れることも多かった。多い日には一日に60人ほどが訪れることもあった。しかし、前途洋々で出航した2019年9月のリリースからわずか半年後、世界はコロナ一色になっていく。

OEMで感じたコロナ禍での大阪人情

「コロナはほんま為す術なし、って感じでした」
志方氏の計画では、ビールのイベントなどいろんな交流の場を活用してファンを獲得し、ECに誘導して売上につなげていこうと考えていた。「その仕組みが先にあれば、もう少し状況は違ったかもしれない。オープンからECを構築する期間がなかったこと、そして何よりもファンと直接交流するビールのイベントが皆無になってしまった」
コロナに関連する補助金や助成金も、店舗を対象とするもので、酒造業の上方ビールは該当しなかったという。
「それがこの業界の間違った部分だったと思う。それをコロナが証明したと思っているんです」

OEMで感じたコロナ禍での大阪人情

そんなとき、ビール販売と並行して展開していた「OEM事業」が窮地を救った。
「もともとここを大阪の新たな観光スポットにすること、そしてOEMの2本立てで行こうと考えていました。そもそも僕が感じていた“日本のビールの多様性”への違和感を同じように感じている人がいるはずだと、創業当時からメディアで少量からオリジナルビールが作れるOEM展開を言いまくっていたんです。その甲斐があってか、コロナ禍では興味持ってくれた飲食店や企業からの依頼があって、なんとか食いつないできた感じです」

業界の垣根を越えて街をまるごと盛り上げる

依頼者の思いが込められるオリジナルビール。志方氏もOEM事業を通じて、依頼者の思いを感じることがいろいろあったという。
「創業したての頃、西成の『Derailleur Brew Works』というブルワリーから依頼があったんです。自社工場もあるのにOEMの必要があるんだろうかと思ったんですが、『おもろいから』という理由だけで作ってくれて、『こんな所でこんなビール作ったよ』と、自社のサイトで宣伝してくれたんです。それが縁でいまも仲良くしてくれています。あれは本当に嬉しかった」
同業者であればコラボ商品などの企画が一般的だろう。そこをあえてしないどころか、敵に塩を送るような印象さえある。
「この業界に身を置いて横のつながりを強く感じます。京都ビアラボを離れるときも『いまままでありがとうございました』という感じでもなく、ふわっと切り替わるというか。いろんなものを受け入れて一緒に楽しんでいく、そんなところが大阪にはあるのかもしれませんね」

業界の垣根を越えて街をまるごと盛り上げる

コロナを乗り越え、いま志方氏はもともとあった構想を計画中だ。
「ここを観光スポット化することです。地域の会社や店舗さんと連携して『ここにも面白いものがあるねんで』と、街全体を盛り上げて、若い人たちがもっと遊びに来たいと思えるようにできたらと考えてます」
その取り組みの一つが2022年11月に主催した「大阪酒万博」だ。大阪産の日本酒、ワイン、ビールなど業界の垣根を越えて酒造メーカーが堂に会したイベントで、大阪グルメや酒の仕込み体験、音楽ライブ、落語も催された。

業界の垣根を越えて街をまるごと盛り上げる

「ライバルさえ受け入れて一緒に楽しむ。大阪のそんな器の大きさや賑やかさがあるから、これからもっと面白いことができると思います。いまも新しいブルワリーの立ち上げを手伝っているのですが、僕にできることなら協力は惜しまないし、研修先に困ったら声を掛けてほしいと思います。ただ、そうは言っても根は職人気質。ビール職人の会社として、発信は下手だなと感じる面もあります。だからこういう話をする機会をもらえたり、お手伝いしてもらったりするとめっちゃありがたいなと思いますね」

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